勇気、という言い方が正しいかどうか

数日前姉から電話があった。私が住んでいる街に引っ越したいという。

姉には発達障害の息子がいて彼は作業所で働いている。PCを使った作業がしたいと本人が希望しているのだけどそれには今の区にいてはできないらしく、私のいる区ならそういう場所があるという。

 

「血のつながった家族が近所に越すのを嫌がる人もいるじゃない?」

 

ぞっとする。ははは、と笑うだけでそんなことないとは言わなかった。

 

私のいる町にマンションを買いたいという。

この辺りはここのところで価値があがって馬鹿馬鹿しいし今買うのは損しかない。オリンピック後なら下がるし、いきなり買うとかでなく賃貸を先にしてみたらどうか、同じ区内でも便利な地下鉄もある。区内で移動するならそちらの方がいいのではないかと提案した。

驚くような値段のマンションを「手が届きそうだし」と言っていたので驚いた。どこにそんなお金があるのだろう。

 

あげく現実的な話をし始めたら「電波が悪くなってきたから切る」と電話を切られた。

こちらとしては話したくないから好都合だけど環境的に電話の電波が悪くなるわけがない。聞いてきておいて面倒になってきたから切ったのだろう。

 

もちろん近くに来てほしくない。

そもそも姉は集合住宅に住むのは無理だ。ちょっとしたことでもクレームを言いに行く人であり、自分の出している音にはまったく無頓着な人だ。家族以外の誰ともうまくいく相手はいない。途中ひとりクリスチャンになった姉はトラブルを起こすため教会を転々としている。寛容な人々とさえうまくやっていけない。

姉が越してくるのは近所の人にしたら天災みたいなものだろう。

 

家族とだってほんとはひとつもうまくいっていない。

自分の息子とも。

 

 

 翌日。母に姉からの電話の内容を話すとその後姉から電話があったらしく、どうも両親が死んだあと頼る人がいなくなるから不安になったらしい。甥を口実にはしたけどそういうことだった。

 

 

問題のある父と姉。波風を立てないことでいっぱいいっぱいの母。

書き始めるときりがないし振り返ると体の中から当時の憎悪と恐怖が生まれようとする。自分によくないから思い出さない。犯罪者にならなくてよかったと幸せな今は思う。

 

 

姉は姉で相当大変ではあると思う。そうだとしてもそこを考えたとしても姉が私を頼ることは私の中ではありえないことだ。

両親が利用できなくなったら今度は私を利用するつもりだろう。

 

姉は統合失調症だ。その姉と障害のある甥なのに非情と言われても私は両親が他界した後姉とかかわりを持つことは考えていない。

そのように母にも話している。

40年以上我慢してきたしまだそれは続いている。

 

だからもうやめるつもりでいる。それは勇気のいることでもある。そういう意思表示は父や姉にはしたことがないから。

 

ふう。これを書くだけで自分のいるところが下がった。

でもそれを自分で言うために書きたかった。

姉を非難するつもりもない。両親を非難するつもりもない。

 

私が私の気持ちを述べるだけ、ということ。