自分の生存確認

実家で母の仕事の手伝いをしているので、この状況下、若くないけど無症状のタイプの感染をしている可能性もある。なので、両親には会っていない。

母に毎日電話をするような仲ではないし逆にあんまり連絡するとそんなに電話して来なくていい空気を出される。笑

気持ちは分かる。母は母でそれどころではないから。

 

友人にも会っていない。なので会話がゼロ、という日も少なくない。というか、文字のコミュニケーションがメイン。

買い物に出たり夜少し外に出たり、くらいだ。

そこには通行人、という距離感の人だけだ。

 

おもなコミュニケーションは文字になる(主にラインかな)。

文字を追って、文字があらわすその感情を感じようとする。もちろん声色はわからないので普段の何倍か想像力を使ってしまう。

そしてグループラインになると複数人の感情を同時に受け止めることになる。

 

もしかしたら5人くらいになると逆にそこまで考えないかも知れないな。流れていくし。

 

ともかく文字は文字でしなくちゃならないことが多い。

 

 

独居のお年寄りはどうしているのだろう、などと考える。立場は同じだ。笑

 

 

完全な一人になれば、わたしは自分を確認する手段がなくなる(と今現在は思っている)。

 

我思うゆえに我あり。では我ありと言えるのだろうか。(意味違ってるかなー)

我思うゆえに我ありと思う自分が思うゆえに我ありと思うゆえに…と入れ子のようになっていくだけでは?

 

逆に他人がいる、と考えることが自分の確認にならないだろうか。思う、触れる。

 

ともかく他人を意識する事、「他人を思うゆえに我あり」と。

人じゃなくてもいいかもね、机とかでも。笑

机は触れば触覚で自分と他の物との境い目を感じる。

境い目を感じることで自他を分けているのか、私は。

 

 完全なひとり(今は3猫がいるからひとりじゃないけど)になった時、どんな世界が見えてくるのか。それは宇宙空間にでも行かない限りそうはならないか。

無人の星に生まれ自動的に栄養は補給されるなどして生命は維持され…なんか星の王子様の薔薇のことが頭に浮かんだけど。薔薇は何を思うのか。そこでも薔薇は星を感じる事ができるかも知れない。

 

ともかく、完全なひとり、何一つ繋がりを持たない、という実験をすることは出来ないけど。

 

できたとして、そこで初めて「我思うゆえに我あり」という段階に入っていくのかも!

しかしそこでは肉体を証明してくれるものはない、ような。痛みや快感や…あゝそれも本当の肉体の感覚なんだろうか。笑

脳の勘違いだったり。

 

ともかくデカルトパイセン!楯突いてすみませんてした!

 

 

チョロナはそんなことをつらつらと考えさせてくれる。

それで私自身が少し進んで行ければいい。

 

私自身?振出しに戻る。笑

 

(哲学に詳しいかた、デカルトパイセンを、間違っていじってすみませんでした。)

 

 

 

私の駄文だけでは心許なくて写真をつけてみてるけどそれも尽きてきたぜ。

近所はやたらマンションが建ってしまいこんな景色になってしまったけどこの線路がずっと残りますように。ここが今や私の元々知っている唯一の風景。

セメント工場があって何か運んでいたみたい。流石にその頃は知らないけど。

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