ぐるぐる編みに含まれるもの

ぐるぐる編み(11日の投稿)はまだ続いている。

手芸愛好家の中で言われる「罪庫」と言われる同じ糸がまだある限りはやるんではないかな。

 

大きくなってくると自分はギネスにでも挑戦していこうとしているような気持ちになる。もしくは巨大なクレープを膝の上に乗せているような。パタパタした重さがそんな感じ。

 

言うほどまだ大きくないけど。

 

このぐるぐる編みは私の時間を内包している。ひと編みごとに含まれていく。私の想いを、なんて書きがちだけれどそういうのはなくてただ私が使った時間を含んでいる。

 

手織りの絨毯も絨毯を織った人の、糸を染めた人の時間を含んでいる。生きていると時間を含んだ物に囲まれまくっている。時間を含んだ物がまたそれ自体に時間を蓄積させていく。

木でできたテーブルは木として伐採されてテーブルとして作られてからも生えていた木としての時間を含めて時を進めている。

そうしてそんなものをどんどん巻き込みながら進んでいく。雪だるま式にゴロゴロ。

 

だから大切にしましょう!

とかそういうのではなくて、ただそうで。

情やらをつけると「ただそれだけ」の良さが失われてしまう。

 

ぐるぐる編みの中には私の時間が含まれているのだと眺めてみる。

 

ただそれだけだなと思いながら。

ただそれだけでいいということは私をとても安心させてくれる。中身がないと言うのは気楽だ。

 

それを外して玉を小さくして行くのも断捨離の一面なのかなーと。自分と進む重たい時間達をポイポイ手放していく。

知らんけど。

 

編み目、繰り返しの気持ちよさ。

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