また写真を撮ろうと思った今、私は何が撮りたいのかな。
前は淋しさ、物悲しさに魅かれていた。誰にも見られないビルとビルの隙間。構われずに置きっぱなしにされてるもの。捨てられたもの。忘れられた空き地。
どちらかというと死を意識した側から何かをつかもうとしていた。
どこかでその物たちと同化することで慰めを求めていたんだろうと思う。
最近、カメラを持って気づいたけど生を感じられるものを探すようになった。死にゆくものの死に際に一層輝く強い生、弱々しいようで小さく力強く輝く生、世界の秘密をずっと受け継いでいそうな植物たちの静かな生。
前と同じように今度は私が感じる生とは何だろうと掴もうとしている、のではないかな。
同じものを撮ってそれが写らなくても私にとっては生物の進化ぐらいの内面の変化だ。
25年以上、いや、潜在的にはもっと前から持ち続けていた私を支えていたところが方針転換をした。でも変わったわけじゃなくコインに裏があったことに気がついただけかも。
同じビルとビルの隙間に誰にも見られなくてもそこにあるのは強烈に主張する生かもしれない。同じコインならとりあえずどちらを見よう。
もう一つ言うとどちらかから見るだけのこと。コインそのものを感じることができればそれがいいんだろうな。生でも死でもないもの。命丸ごと、なのかな。
写したいものが写せるようになったらいいな。
写そうとしてないものが写ってこれもいいかも、がまだ多いのだった。(;ω;)。