母の話。
明日は母の誕生日なので。
私がバセドウ病になった時、母が祖母と同じ甲状腺の腫れに気づいたので病院に行ったのだけど、その時おばあちゃんとは血が繋がっていないので遺伝じゃないよと言われた。
ちょっとは驚いたけど、昔だし色々とあったろうなとその時は思った。
数ヶ月前。昔は子供は大きくなる前に亡くなる子が多かったよね、という話になった。父の姉も赤ちゃんの時に亡くなって父の実家の仏壇には女の子の写真が飾られていた。
母が「おじいちゃんは子供をたくさん亡くしてかわいそうだったんだよ」と言った。
母の上にも下にも兄弟がいて皆赤ちゃんの時とか3歳くらいまでしか生きられなかったそうだ。ある程度生きた母のお兄さんも腎臓病で若い頃に亡くなってしまった。
母の血の繋がったお母さん(ツギさん)は、母の下の子を産むときに自宅出産で亡くなってしまったそうだ。その時生まれた子は育てることができなかったので養子に出したけどやっぱり長生きできなかった。
その後母が5歳の時、おじいちゃんに写真を見せられ「この人がお母さんになるけどいいか」と聞かれ、嫌がっても仕方ないと思ってOKしたらしい(この感じが母らしい)。
お嫁に来た人(ツナさん)は小田原市内のレコード屋の娘さん。日本橋の白木屋(今COREDO日本橋があるところにあったデパート)のお洋服の縫い子をしていたらしい。
ツナさんは全く家事をせず、子供2人産んで面倒も家事も任せきりだった。母はお姉さんと二人で家のことをやり、小さい子二人の面倒を見たそうだ。
一人は弟(私にとって叔父)、もう一人は妹。弟と赤ちゃんだった妹の二人をいっぺんにおんぶして子守をしていた時、後ろに倒れて転んでしまった。赤ちゃんは鼻血が止まらずにそのまま亡くなってしまった。
亡くなってわかったのは赤ちゃんは白血病だった。それが原因で血が止まらなくなった。ツナさんは母のせいにした。自分の母親に「子供を殺された」と言ったそうだ。
私たち家族がお盆とお正月に母の実家に行っても、ツナさんはあまり部屋から出てこないし、いつも気難しい顔をしていた。
母はそういうことを一気に話した。甥っ子が仕事から帰ってきていつもなら仕事の様子を聞いたりするのに話しかけもしなかった。
5歳より前に自分の母親が死んで、その後の母親に愛情を向けられることもなく育った。受けられてよかった愛情を知らずに育ったと言えると思う。それでも子供を3人育てた。(まだ姉と姉の子供(といってももう24歳だけど)の面倒見てるけど。)
母の救いは、祖父がとても優しい人だったことだと思う。子供たちをとても可愛がってくれたと。それがあったから私たちを育てることができたのではないか。
知らないことをすることは難しい。
私が気づかなかった母の愛は「されたことはせずされなかったことをする努力」だったのかなと思った。
父と離婚せずにやってきたこと、家業を懸命にやってきたこと、姉と甥の世話を焼き続けること、私に関しては・・・
「あまり帰ってこなくていい」と言うことかもしれない。あまり関わらなくていい。と。いやでも私が色々していかないとならないからちょっとでも負担を減らしたいと思ってくれているのだと思う。
母が嫌で嫌でお金を貯めて家を出ようとしたけど祖父に頼まれて出られず我慢し続けた事も関係してるのかもしれない。全ては推測だけど。
母はあまり自分のことを話さない。言いたくないのか「話す」と言う選択肢をもともと持っていないのか。自分の気持ちを話さないできた人だから。
母がどんなふうに思っていてもどんな人でも私にはあまり関係ないのかもしれない。
私が母を全体像でそのまま受け止めていればいいんだと思う。母がしてきた努力を自分なりに翻訳して育てていければいいと思う。そして自分の中で循環させる。
残念ながら母の人生は今回は平穏にはならないと思う。もちろん少しはそうなるといいと思ってる。それを心から願う。
なるべく母にできることをしたいけど、きっとそれは私の思う形では受け取ってはもらえないだろうと思う。
実家は史上最大に凪の状態なので行くのは構わないのだけど、母なりに私を守ってくれているのかもしれない。(ここも推測なのであまり推測はせず、自分ができることをやっていければいいと思っている。)
あと何年一緒にいられるかはわからないけれど楽しく話したり愚痴を聞いたり。爆発しそうなドライヤーを使っているので豪華ドライヤーをプレゼントしたりね。