バターになりたい

宗教はどうして必要なのかなと思う。

辛い状況にある人々は熱心に信仰する傾向があるような気がする。
それはそうか、辛いんだもの。

でもそれで解決してきてない。差別や不平等は変わらず辛い状況にある人は相変わらずたくさんいて。差別や迫害されているとか自分の頑張りじゃどうにもできない。歴史にはかなわない。
(週に一度教会に行ったり家でお祈りしたりすることで現実が変わらなくても救いはあるのかもしれない。救いがあった時点で現実は少し変わっているのかもしれない。それも思う。変わらないと思っているのは私が勝手に思っていることだし。)

そんな状況で心の優しい人はますます神様のようなものから離れていく。多分それは神様のせいじゃないんだけど…

テーマが大きすぎる…

大丈夫、この後いつものようにグダグダになるから。

 

そんで祈り方が何割、だとかそう言う本が出たりする。色んな価値観が合体したタイトルでなんかさすがだなあと思う。読んでないのに言ってるからまるで違う本かもしれない。そしたらごめんなさい。けどこうしたからこうなってほしいというのはあるところ唯物的な考え方と同じなんでは、と思ったりもする。信じ方がわからなくなってくる。

という感じで考えがぐるぐる回る。どんなにぐるぐる回って苦しくても溶けてバターにもなれない。

もしかしてバターのようになったらそこには救いがあるのかもしれない。

祈りや瞑想のもたらす結果(知覚できてもできなくても)はバターだったりするのかも。

 

悪い人よりはいい人でいたいと思う。誰かに嫌な思いをさせるよりは笑ってほしい。

けどいい人が「いい結果(これも私が思い通りにする価値観の世界での基準)」を招くとも限らない。溶けたバターの中ではいいも悪いもない。バターのみぞ知る。そしてバターは私や誰かだ。

鼻かんだティッシュがゴミ箱に入らなかったことがいい結果を招くのかもしれないし戦争を起こすかもしれない。

そういうことを考えるのは発狂の元なのだけど。