[オクラとキノコとコンビーフ炒め]
オクラ、冷凍キノコ、を少量の水でちょっとしたら卵一つ入れて、卵に火が通ったらコンビーフいれて混ぜる。コショウ。
味付しなかった…塩か醤油入れれば良かったかも。
[ほうれん草おひたし][作り置きの白和え]
作り置きと下茹でが尽きたので何かやらねば。
オクラはツナマヨにカレー粉入れたりして炒めたのも美味しかったな。
んー。全然足らなかったので、追加で納豆にモッツァレラチーズとオリーブオイルと塩胡椒で食べた。
[モロヘイヤのスープ]
モロヘイヤ、しめじ、ベーコン、コンソメ粉末、スパイスの粉(カレー用にミックスしたやつ)、ローリエ、ニンニク
[サバ味噌煮缶にプラス]
エノキ、ネギ、バター、梅干し
[アボカドサラダ]
アボカド、ゆで卵、トマト、ツナ缶、ルッコラ
アボカドはレモンとマヨネーズしといてゆで卵混ぜた。
白和えは昨日の残り。モロヘイヤも茹でておいたもの。
サラダのマヨネーズ大さじ3てレシピにあったけど多すぎる。これもまた教訓。
夕飯の時間になるとやる気が急降下するので、やる気が出た時間にできることをやるのがいいと思う。
野菜を茹でておく、冷凍しておく、など。
希望としては1から作るのは一品までにしたい。
家事ってシステムつくるとクリエイティビティの部分減らせるよねきっと…
システム作りの第一歩は結局自分を把握するってことなのよね。
センスがない。
それはとりあえず今日のところどうしようもない。
映えに無縁の人生。
料理が苦手とはちょいちょい宣言していますが。これからなるべく自分のために作ったら記録しようと思います。
写真見て気分を害する人がいませんように…
[納豆スパゲッティ]
納豆、付属のタレ、梅干し、紫蘇、塩昆布
オリーブオイル、胡椒
※スパゲッティはしっかり冷やすのがポイント
[春菊とにんじんの白和え]
豆腐、白胡麻、味噌、砂糖、出汁
春菊、人参
[お湯注ぐだけのやつにネギいれたスープ]
海藻とか入ってる
した
スパゲッティはYouTubeのレシピを参考にしました(https://youtu.be/jvpcfsmyN3I?si=TMT4_LWuurlBlZD0)。元のレシピは塩昆布も紫蘇も入ってないです。夏の動画なので冷製スパゲッティです。
麺はZENBという豆の麺。梅干しは自分の作ったの使えて嬉しい。
汁物はなるべく作ろう。
白和えはネットのレシピ見たらちょっと甘かった。ネットのレシピはだいたい甘い。味噌は白っぽい麦味噌。
ここのところついオヤツ多めに食べちゃってたら目と鼻がぐずぐずしやすかったり血液調べてもらったら先生にツッコミを入れられたのでまた小麦や砂糖とりすぎない日々に戻します。
多分リバウンドするかどうかの境目にいる気がする…
やっぱおやつはおいしいなー!
わたしは子どものころとても察しが良くて物分かりのいい子だったと記憶している。小学生も足し算引き算までは勉強もできたのでまあまあ知恵の回る子だったのではないかしら。
あまり泣いて駄々をこねたりした記憶もない。というか泣く時はひとりで隠れて泣いてた。
見た目はおっとりのびのびしてたんじゃないかと思う。いわゆる手のかからない子。
これは今の私を作ってる記憶だから正確さはわからない。
察しが良くて物分かりがいい子は助かる。助かるのは親。助かる子でいることで愛されようとしてきた私の戦略はあまり目的を果たせず、忙しい大人は、そんなところまで見えなかったのだと思う。真ん中な上に手がかからない私は仕事で忙しい両親にはあまり触れられずに育った。
全ての子どもは愛されたい。無条件に。
全てのおとなも多分愛されたいし。無条件に。
多分ほとんどの人がたりてない状態で大人になる。おとなも子どもも変わらない。
だから頑張らなきゃとか成果を見せなきゃ価値がないとか自信が持てないみたいなのは自然に身についていく。そしたら褒めららたり認められたり自分がそこにいていい人間だと思える。大事な人に大事にされると思える。そんな自分に価値を感じ自分を信じられる。それはある意味不幸の始まり。信じるが生まれると不信も生まれたり、できるが生まれるとできないも生まれる。
いいも悪いもない。人としての価値は生まれた時から増減がない。頑張ったり成果を出すのは余白と私は思っている。自分らしく、自分の命を大切に生きる。ありのままというやつで。そんなこと、どの口が言うかっていう私だったけど。
言ったらなんだけどホントに自分が嫌いで役立たずで無価値で醜くて憎んでいた。まだそんなこと書くとチクッとする。
でも信じている。感じた瞬間から生まれるってことを。自信も。幸福も。全部言葉は違うんだけど胸の真ん中で感じる温かさや輝きやらは同じものだと感じる。いいからやってみろ案件だ。やってるうちになんだかそんな気がしてくるのだ。
根拠はない。でも一見根拠があるとされている根拠も怪しいものだと思う。
何もできない私だからきっとそこへ辿り着きやすかったのだと思う。何か得意なことがあったり仕事ができる人はなかなか大変だと思う。
物分かりよくしちゃダメ。そういう頑張りいらない。というところに落ち着いた。迷惑だって必要なことなのだ。愛し愛されて、迷惑かけてかけられて循環すれば24時間いいお湯加減の風呂みたいなものだ。必要なものしかこの世界には存在しない。
なんて言い切ってみた。
日向ぼっこの季節がやってまいりました。
今更そんなことわかってます、って話かもしれないけどこう言うのって言い続けることが大切だと思う。
私はニンジンだったもので豚肉だったもので、
そのニンジンも何かだったものだ。豚も何かだった。それは虫になり微生物になり排泄物だったかもしれず鯨でもあったかもしれない。
切れ目なく繋がってる。
みんな何かだったもので、現在もその何かでありながら新しい何かである。全てである。
いま考えてるわたしは含まれてる中の小さな部品。
先日用事があったので六本木にあるフエギアに初めて行った。フエギアはヤバい香水屋さんだ。
香水の組み立てが独創的で詩的で原料は多分とてもいい。美学でできてる感じ。言っとくけど私は香水ど素人だ。
ど素人の大胆さで店の方と話している。ただこの香りが好きだとか感想だとかを素直に口にして快く受け入れてくれる。多分私のおかしな熱量が伝わっているのだろう。生温かい目というやつだ。
香りは記憶とも密だし正解はないもの。目に見える世界がそれぞれ違う以上に嗅覚の世界は全然違うと思う。なんというか右脳的な。
一度調香師の人にイベントでお会いしたことがあるが目がキラキラした可愛らしくて透明感のある人だった。濁りのない人だった。香水のことしか考えてなさそうだったな。芸術家。
そして原材料によってお値段が衝撃的。狂気の沙汰だ。そしてそれを買う人も狂気の沙汰だろうと思う(肯定してます)。このままこだわり続けてそのうちハイブランドのバッグくらいの値段がつきそう。その芸術家を気に入った物好きが作品を買う。もちろん目玉の飛び出るようなものだけではなくお求めやすいものもある。いつの世もそんなおかしな人たちはいてお互いを支え自分を支えている。
私も銀座のフエギアに行って気分を上げて大事な場面に行ったことがある。色々嗅がせてもらってるうちにホントにマインドが混乱するというか、普段の私とは少し違う状態になっていたと思う。
先日試させてもらった伽羅を原料にしたものは完全に誰かへの「ウケ」のようなものは一切関係のない世界の香り。嗅いだ瞬間学校の保健室の前の冷たい廊下と琺瑯の洗面器の記憶が蘇った。薬品のような匂いだと私の鼻は判別したのだと思う。
次にお寺の廊下のような。
いずれにしても静かで誰もいない。私だけしかいない。
お店の方によると、自分の内側に向かい合う香りと仰っていた。静謐な時間と空間へと連れていってくれる香り。
香りって面白い。
脳とダイレクトにやり取りできるというかね。
香りそのものの快楽とその記憶とのやり取りの快楽があるのだろうな。
フエギアの香りは中毒性があるように思う。それくらい私には他の香水ブランドとは違う世界に存在している。