頑張らなくていいとか迷惑かけるとか

わたしは子どものころとても察しが良くて物分かりのいい子だったと記憶している。小学生も足し算引き算までは勉強もできたのでまあまあ知恵の回る子だったのではないかしら。

 

あまり泣いて駄々をこねたりした記憶もない。というか泣く時はひとりで隠れて泣いてた。

見た目はおっとりのびのびしてたんじゃないかと思う。いわゆる手のかからない子。

 

これは今の私を作ってる記憶だから正確さはわからない。

 

察しが良くて物分かりがいい子は助かる。助かるのは親。助かる子でいることで愛されようとしてきた私の戦略はあまり目的を果たせず、忙しい大人は、そんなところまで見えなかったのだと思う。真ん中な上に手がかからない私は仕事で忙しい両親にはあまり触れられずに育った。

 

全ての子どもは愛されたい。無条件に。

全てのおとなも多分愛されたいし。無条件に。

多分ほとんどの人がたりてない状態で大人になる。おとなも子どもも変わらない。

 

だから頑張らなきゃとか成果を見せなきゃ価値がないとか自信が持てないみたいなのは自然に身についていく。そしたら褒めららたり認められたり自分がそこにいていい人間だと思える。大事な人に大事にされると思える。そんな自分に価値を感じ自分を信じられる。それはある意味不幸の始まり。信じるが生まれると不信も生まれたり、できるが生まれるとできないも生まれる。

 

いいも悪いもない。人としての価値は生まれた時から増減がない。頑張ったり成果を出すのは余白と私は思っている。自分らしく、自分の命を大切に生きる。ありのままというやつで。そんなこと、どの口が言うかっていう私だったけど。

 

言ったらなんだけどホントに自分が嫌いで役立たずで無価値で醜くて憎んでいた。まだそんなこと書くとチクッとする。

 

でも信じている。感じた瞬間から生まれるってことを。自信も。幸福も。全部言葉は違うんだけど胸の真ん中で感じる温かさや輝きやらは同じものだと感じる。いいからやってみろ案件だ。やってるうちになんだかそんな気がしてくるのだ。

 

根拠はない。でも一見根拠があるとされている根拠も怪しいものだと思う。

 

何もできない私だからきっとそこへ辿り着きやすかったのだと思う。何か得意なことがあったり仕事ができる人はなかなか大変だと思う。

 

物分かりよくしちゃダメ。そういう頑張りいらない。というところに落ち着いた。迷惑だって必要なことなのだ。愛し愛されて、迷惑かけてかけられて循環すれば24時間いいお湯加減の風呂みたいなものだ。必要なものしかこの世界には存在しない。

 

なんて言い切ってみた。

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日向ぼっこの季節がやってまいりました。

 

今更そんなことわかってます、って話かもしれないけどこう言うのって言い続けることが大切だと思う。