信頼のこと

 

電車で隣に赤ちゃんとお母さんが座った。

赤ちゃんはまだホントに小さくてまるでまだお母さんのお腹に入ってるみたいな顔で寝てる。見たことはないが。

なんの怖れもない。なんの疑いもない。

 

ずっとこうじゃダメかな。

これをやってみたら。

と思った。

 

これが何かとある空気や状態を作り出すのに必要な在り方ではないか。

全幅の信頼をおく。

何があるから信頼するのじゃなく。デフォルトで。私が信頼そのものだとおもったっていい。私が信頼で楽観で。

 

だからって「お金くれるっていうからキャッシュカードを送って暗証番号まで教える」みたいなのじゃなく(ニュースで見た)。あれは怖れから発信してしまってる気もするが。

 

わたしたちは常に変化し続けるとある状態なのだと思う。一瞬一瞬変化を続けている。

 

だからそれが「信頼」であってもいいわけだ。私という言葉を変えただけ。

在り方の説明をするのは難しい。

「在る」のは「在る」でしかなく。

あれ。なんか矛盾したかな、言葉の問題かな。

 

自分は世界、自分を包み込むゆりかごのようだと思うこと、自分でありゆりかごでもある。世界は赤ちゃんがお腹の中にいるような顔をして眠っていたお母さんのようだとイメージすること。

 

生きるのって実験だな。

 

母なる地球っていうし。

なんで神様は父で地球は母なのかしら。

 

駅近くの猫。

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いやごと言いたいんじゃないけども。

なんだか、見えてるものというか、自分の世界がとても小さくなってる人が多いんじゃないかと思うことにまあまあ出会う。

仲良い人とか小さいコミュニティだけのバランスだけを大事にしてそれ以外がどうでも良いような。

 

スマートフォンが登場してからなんじゃないかって思ってしまう。

時々世界中のスマホ爆発しろと思うことがある。となると道に迷ったり電車に乗りたい私は困ってしまうんだけど。笑

 

なんというか自分で情報も調べられるし本屋で偶然素敵な本に巡り合うことがなくなってしまったような世界の小ささ。

予想外へのシャットアウトのような。自分の知ってる世界だけで完結している。

 

電車に乗っているとスマートフォンと自分だけの世界になっている人がとても多い。私も電車で見てればその時はそうなってると思う。

 

時代の流れならどうしようもないのかもしれないけど。

 

並んでいた順に電車に乗るとか、タイミングが一緒になったらちょっと譲ってみるとかそういう世界との触れ合いみたいなものから離れていっているとしたら…

 

と、電車に乗るとホントにそんなこと考えてしまう。

結論は…

 

自分は世界と関わったり、偶然性や予想外を楽しめればいいってことなんだろう。

 

くらいしか。

今はどう?

聞かれて困る質問で

「好きな音楽は?」「好きな色は?」

と言うのがある。

 

好きな音楽はいっぱいありすぎて急に出てこないし、色に好きも嫌いもなくてどう答えていいかわからなかった。

 

その時その時真面目に答えようとしていた私はとてもいい子。

 

聞いてくれた人はそんなに大袈裟に聞いていたわけじゃない。興味を持ってくれたり、間が持たないと思った人もいたかもしれない。

お気遣いありがたいです。

 

 

この間歩いててふと、今の気分をどんどん答えていったらどうかなと思った。そのこと聞かれて困ったわけじゃないけどなんだかふと思った。

 

最近ふと思ってばかり。

 

今自分がどう感じてるか、何が好きなのか。なんだか楽しくなってくる。

 

今歩いてる。右足、左足、犬楽しそう、風寒い…

今ご飯食べてる。お豆腐噛んでる、汁熱い、味噌おいしい、カラス鳴いてる…

 

 

今が動いてる感じがする。お豆腐を噛むのに口を開けて閉じる。その瞬間がパラパラ漫画みたいに無限のコマ送り。

 

目の前の人もコマ送り。私が見てるのは怒ってるコマ、笑ってるコマ、ただの断片。断片を一緒に過ごす。

 

今の世界を、今の自分を感じると、時間の流れと一緒にいる感じがする。

 

心や感情は気にしない

心のことを少し学んで思ったのは、心はいつも過去の体験から今のことを決めていて、防衛がお仕事なんじゃない?ってこと。

 

苦しいことも苦しいと感じる原因があって、それは本当に一見もっともな理由で苦しくなる。でもそうじゃなくてもいいんじゃない?と思う。

そしてその理由は正確なものですか?と。

 

周りの環境に合わせて体の色が変える蛸が頭に浮かぶ。

自分の組織をサッと変化させる。自分の経験に基づいてここは怒るところ、怖がるところ、喜ぶところというように。

元の体験が違えば反応は違うだろう。

 

だから心もひとつの機能。内蔵的な人間を維持する機能だと思った方がよいのじゃないかと思う。

防衛できないと生命の危機だもの。

 

心や感情と体は当然だけどすごく繋がっていて、お互いがお互いを保持するために機能している。

だから心も肝臓や心臓と同じものだと思った方がいい。

 

私は感情や心ではない。

それは私の一部。

つい心を中心に考えるけど、これが昨日の一部と考えるなら感情や心を自分の役立つようにしていくこともできるはず。

筋トレして肉体改造するように。心という機能を使いこなす。

どれくらい切り離しができるか。

 

心の事を少し学ぶと、それに全乗っかりで行くのもどうなんだろうかな、と、思う。

 

 

そして、どんな風な気持ちを選ぶこともできるならその瞬間瞬間、何を選ぶかな。

ちょっとわかった健康

なんとなく毎日を生きるには当たり前がかけている。そういう当たり前を積み重ねないでこの年になってしまった。

自分を大事にするとか体を大事にするとか食事の大切さとか。

 

そしてちょっとわかったかもなこの頃。

 

どこが始まりかはわからないのだけど、どこかをキッカケに色んなことが同時に起こって寝られなかったりやる気が起きなかったり、ともかく同時に起きて全部の生き物としての機能が落ちていった。生命のレベルが下がっている感じがした。体がうまく動かなくなってきた。

多分目の病気が最後の一押しをしたような気がする。家の中でも動くのになかなか慣れず家の中でもじっとしてるようになった。

 

一日何かすると翌日は起き上がれなくてほとんど横になっている。毎週のように会う友達とご飯を食べるのと、仕事で行く実家でちゃんと生きた食べ物を食べるっていうか。その2つのイベントをこなすため他の日は休むみたいな日々。

完全に悪循環。

 

そして思い立って知人が通っている統合医療の病院を受診した。調子が悪いとやった方がいいことも思いつかない。

 

ようやく何を食べるのか、ちゃんと向き合うことになりそうだ。そして口に入れるものを変えると体が変わって行くどうかもわかるんだろうな。

 

 

巡ると巡り、動くと動く。

食べたもので体が作られる。

心も体。食べたもので体が体を作る。生命凄すぎるわ。

そんなことを実感することになったらいいな。

動けずにじっとする日々は運勢のようなものも私の周りではピタッと止まった気がした。空気が動かないというような。

 

副腎疲労低血糖甲状腺機能が亢進気味(これは元々ある)

 

まずは足りない栄養素を補って血糖値の推移をなるべく穏やかになるように糖質の取り方に気をつけてタンパク質をもっととるという食生活。

 

まだ横になりたがりだけど、少しだけ起き上がる気力が出る時間が出てきている。家のことちょっとやってる。

 

結局体って脳も体だから気分も変わるよね。そういうせいもあるかも。

どこかだけが悪く、どこがだけが良くなるわけではなくて多分全体。生命全体で落ちていき、生命全体であがるのかも。

健康とか体とかちょっとだけ理解できたかもしれない。

自分が虫や、動物と同じただの生き物だと思えた。ことが生命をちょっと理解できた気がして嬉しい。

 

 

鳥で考えた

信号が変わるのを待っている。顔を上げたらとても高いところを2羽の鳥が飛んでいた。

 

あー。そっか。

鳥で考えるとわかりやすい。

 

鳥は飛ばないと落ちてしまう。

それぞれが飛ばないと行きたいところへ行くことができない。群れも季節までにワタリを終えることができない。

 

人間は地面に足をついてるからよっかかってもおぶさってもどこにも落ちてはいかない。

だからよっかかったりおんぶしてって言ったり。

 

 

1羽でも2羽でも群れでもそれぞれがちゃんと自分で飛べる鳥でいれば。

そしたらきっと早く素敵なところへ着いて、

美味しいお茶なんか飲んじゃって。

 

勝手にひとりでやれってことじゃないの。

群れや複数で生きるためにも自分で飛べることは最低限のこと。もちろん完璧じゃなくていいし、ただ自分でちゃんと羽ばたいてるかってこと。

 

ここのところ考えていたけどしみるほどの理解できていなかった。

世界にオープンでいればヒントは色んなところに用意されている。

なんだかそうやって進めていくゲームみたいだなと思う。

頑張ろっと。

 

 

 

 

変わってない時、どうしてみるか

久しぶりに父のやらかしに遭遇。

酒飲んで暴れたってことなんだけど。

 

トラウマチックな身体の反応を感じながらも冷静に対応したけどちょっと失敗もした。少し逆撫でしたから。久しぶりにやったろかモードがうずいた。逆撫ですれば母へのやらかしが激しくなる。

だからやめた。

周りを怒鳴り侮辱して大枠で言うと俺を大事にしなかったことへの全力の抗議。抗議という暴言。

子どもかよ。何言ってもいいと思ってる俺様。

体と声が大きく物を投げたりするので始末が悪い。甘えてる。

 

私は追い出されたので自宅へ帰る車の中、色々な考え方をしてみようとした。

 

私のこの気持ちの内訳を考えてみたり。

 

結果、

親父きも!

 

52歳にキモいと思われる82歳。

キモいはカワイイとヤバイと同じくらい便利ね。

 

自分の気持ちの切り替えがあまり進歩してなくてガッカリもした。

 

でもひとつ思うのは、この感情は私では無い。ということ。

正確には私そのものでは無い。こと。

 

と。同時に、ふと思った。

父もそうだろうか。

 

あの大暴れ母への暴言も父そのものでは無い、ただの父の感情。過去の経験からの反応。

言ったら過去の亡霊や魑魅魍魎に取り憑かれた状態の人がワーワー言ってるだけ。

 

亡霊や魑魅魍魎を憎んで父を憎まず。

 

私もまたこのトラウマチックな反応はそんなモノ達がしていること、私そのものではない。

 

 

という処理の仕方はあんまり良くないような気もするな…

それぞれの魂の輝きを信じた上での、という前提が有ればまだいいだろうか。

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賢者ニコはひらべったくなりながら考える。