絶対的な安心

まとまってないんだけど、大切なことだからメモしておく。最近「安心」というキーワードが私の中にある。

安心していることが、とても重要。

 

とても。

 

安心した状態から発せられる言葉や考え自体がもたらすもの。

ただの自分でここに存在していい根底からゆるされている感覚、とでもいう感じか。

 

安心してる人は何かできてるから安心してるわけじゃない、安心してるだけだ。

幸せな人は何かがあるから幸せなわけじゃないのと同じ理屈だ。全部私にとっては同じ理屈にしておくと簡単だ。

 

私がそう言うんだからそうなの!!

以上!

 

すみません。笑

 

 

私は自分の生まれ育った家で安心感を感じることはできなかった。いつも気を使って家族の機嫌を伺う子だった。結婚したら今度は夫の機嫌を伺ってきた。勝手に疲れて勝手に離婚した。安心を求めて結婚したのに。

 

でも今は少し違う。

うまく言えないけど、自分をゆるしたのかもしれない。多分それが進むともっと安心できるような気がする。

 

この間まで長いこと夢も見なかった。

見ていたのかもしれないけど睡眠時間が短く、常に緊張気味だったので覚えていることができなかった。スイッチ切れるように寝てスイッチ入ったように目が覚めた。

 

それが最近夢を見るようになってきた。夢を見たと言う寝覚めが戻ってきた、ということかも。

 

ただやたら安心しろっていうのも難しいことだとは思う。

 

でもたとえば何かができたら安心、という考え方があったとして、その考え方には終わりがない。次々何かすることって現れてくる。

終わりがないように思う。

いつも次のことを見てる。

 

全ての結果は自分の命が終わる時に判定が出る。それまで本当の結果はわからないのに安心できるだろうか。その時何かできてもまた次何かしなければ、となる。

 

だから今安心する。安心からスタートする。数を1から数えるみたいに。

 

私はなぜこんなに何もできてないのに安心してるんだろうな。我ながらお気楽だなと思う。

なんだか安心という状態にとどまるゲームみたい。どう考えるか、どう捉えるかのゲームをしてる。私はマイルールを決めてゲームしてるみたいだな。

 

全然説得力ないけど、とりあえず書くだけ書いたのでいいかな。笑