わたしなりの自愛は力技

結局自分と向き合うのは最後は力技になるような気がする。そして繰り返しになる。

 

自愛、いつまでもこれについて書かないわけにはいかない。まとまってないけど書かないわけにはいかないので今日の時点でことを書いてみるか。

 

わたしはわたしの隙をついて、言葉は言葉の隙をついて打ち消してくる。どうしても自分には価値がないとか何ひとつまともにできないとか。

 

だから、これができてないから、とか、理由を話し始めたら自分を背負い投げして自分にやさしげな領域まで投げ飛ばす。

自己卑下育ちの私もそれに段々慣れてきた。

 

ダッシュで自分が自愛から逃げ出そうとしたら走って追いかけて行って首根っこを捕まえてそんな自分を背負い投げで、もしくは遠投のような投げっぱなしジャーマンスープレックスで自愛領域へと投げ飛ばす。その追いかけてるわたしは誰だ。それもわたしだ。

 

しかし。実は自己卑下や自傷すら自愛の大きな宇宙の一部なのだ。私たちはその宇宙から出ることはできない。実は。

 

それにね、走って逃げたいと思う気持ちそのものも実は自愛なので本当はどこへ逃げても変わらないのだけどね。無関心ですら無関心にならずにはいられずそうまでして自分の真ん中を守ってるから。それも大きな大きな自愛の一部。命ある限り自愛から私たちは逃げることができないのだ。だって地球はまあるいんだもん、の世界だ。いくら走って走っても元の場所に。まあるい地球の上を走ってるだけ。愛という地面の上を走っているだけ。

 

だから好きなだけ走ってもいいけれど、諦めて寝転んで楽しいことでも考えた方が無駄がないって思う。

 

バカバカしいと思われても、色んな悲しいことや傷ついたことも自分が認識できないくらいの外側では守られているんだなって思うと、安心してすっ転べるのだ。

全然うまく書けなかったような気もするけど、一度はちゃんと外に出さなきゃいけなかった自愛のこと。でした。

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昨日は海の近くの美術館に行ったので真珠のブレスレットをしていこうと思ったのだ。